「あの日、あの時」≪92≫:鄭容順

【写真説明】10月25日、金剛学園の取材で撮影。小学全児童は演技した服装で最後は舞台に立ち韓国の歌、日本の歌を披露した。ずらりと並んだ児童たちは圧巻である。
■朝鮮に生きた日本人と日本に生きた朝鮮人
植民地支配下の朝鮮にも多数の日本人が住んでいた。彼らは朝鮮人とは別に日本人社会を形成していたがここには日本の植民地支配の実態が明確に反映されていた。一方、日本の植民地支配が続くなかで日本に生きた朝鮮人は増加していった。彼らは劣悪な生活条件と民族差別に苦しんだが自分たちのアイデンテイテイーを失わないように努力しながら在日朝鮮人社会を形成していった。
「在朝日本人の増加」
明治政府は1875年の江華島事件を機に朝鮮に開国を強要し翌年2月、日朝修好条規を締結し、釜山・仁川・元山の3港を開港させた。さらに治外法権を認めさせ付属文書で貿易の無関税を定めた。
早くから日本人が進出していた釜山では開港後、日本人貿易が不平等条約に支えられて日朝貿易を拡大した。江戸時代に日朝貿易の窓口となっていた草梁倭館の敷地がそのまま日本の居留地となりその中心に領事館などが置かれ周辺を民間人が借地し、広大な埋立地を造成して税関や鉄道用地とした。
居留地に住む日本人を居留民といったが朝鮮と近い山口県、福岡県の出身者が多かった。居留民が増加し居留地が拡大すると各地に居留民団や居留民会あるいは日本人会が設置された。特に漢城(現在のソウル)を含む京畿道と釜山を含む慶尚南道には日本人全体の40~50%もの人が住んでいた。当時の居留民は官吏や貿易商だけでなく日用品・食料品を扱う商人や大工などの多様な職業の人々がおり女性も相当の比率を占めていた。
居留地では独自に日本人街を形成し朝鮮人とはほとんど接触しないで生活し、そこには日本風の地名が付けられ京城には本町・黄金町・旭町・明治町、釜山には琴平町・弁天町などがあった。居留民団は各地に神社を新設した。釜山では江戸時代に草梁倭館に祀られていた金刀比羅大神や住吉大神が龍頭山神社となり植民地期にも信仰を集めた。神社は植民地都市における日本人社会の精神的統合の核として不可欠のものと考えられていた。
在朝日本人は日露戦争を機に増加した。日本は日露戦争の勝利によって朝鮮半島で独占的な地位を確保すると一層確固たる支配体制を確立するために日本人の移住を積極的に推奨した。韓国への農業移民が盛んに唱えられ荒地の開拓や移住漁村の建設が叫ばれた。
1908年、日本政府は東洋拓殖株式会社(東拓)を設立して日本人農民を韓国に移住させようとした。東拓は韓国で広大な移住用の農地を確保したが土地を買収する過程で韓国農民の激しい反発にあった。
このような政策は日本の「過剰人口のはけ口」を韓国に求めただけでなく日本の勢力を韓国に移植しょうとしたものでもあった。韓国への移民は安定的な支配体制の構築と治安維持を主な目的にしていた。
〓居留民団〓居留地に住む日本人の戸籍・土木・教育・衛生・消防・神社などに関する業務を担当した組織。開港場や開市に次々と設置され1914年に廃止された時には京城・釜山・仁川・平壌などの11カ所に置かれていた。
〓京城〓京城は朝鮮時代の漢陽・漢城のことで1910年10月の総督府令によって京城とされた。1910年、京城在住の日本人は3万8397人、朝鮮全体では17万1543人に上っていた。
〓神社〓日本の神道の神を祀るところ。第2次世界大戦敗戦まで政府の大きな保護を受けた。
参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』
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第2章―解放前の在日朝鮮人のくらし―
□差別と偏見のなかでの定着家庭―渡日の第二段階□
「コラム―協和会」
協和会は解放以前に在日朝鮮人用につくられた官制の団体です。戦争が激しくなるとともに在日朝鮮人が多くなりまた強制連行が始まった1939年に全国すべての都道府県に結成されました。
強制連行労働者を含めて日本にいるすべての朝鮮人を会員にした組織で会員すべてに持つことを義務付けたのが「協和会会員章(手帳)」でした。
手帳には写真が貼られ本籍地、日本国内の住所、職業などが記載され本人確認の手段になっていました。「君が代」、「皇国臣民ノ誓詞」、「会員所持者心得」が書かれている手帳は30ページあり、飛行機献金、国防献金などの記録も書きこめるようになっていました。
こうした手帳があったということは朝鮮人が日本人とされながらも治安対象になっていたことの証明でありまた「愛国心」の度合いを測る道具になっていたということです。この手帳がないと故郷との往来ができず度々あった臨時検査などで警察に拘留されることもありました。
協和会事務所は警察署内におかれて特別高等警察課内鮮係が幹事に署長が支部長となっていました。寄留届け以外の行政事務は警察署が担当でした。たとえば日本国内在住者の創始改名は協和会=警察署が担当したのです。
協和会という名のもとで日常的には神社参拝、国防献金の集金、女性に対する和服着付け教室、日本料理講習などの行事が行われました。日本国内でも朝鮮人が着る白服に墨を塗るなどのいやがらせがありましたがこれも協和会で行なわれました。
協和会には指導員がおかれましたがこれには日本語がわかる地域有力者の在日朝鮮人が就かされました。特高警察が指名するため断れなかったのです。断ると留置されたりしました。
現在、協和会手帳は全国で数点が確認できるのみです。戦時下に行われた朝鮮人抑圧の具体的な証明として歴史的に貴重な資料といえます。
参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介。
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協和会の項目を記述していると父親のことをずっと思い出しながらこの項目を記述していた。
5歳で渡日、京都市南区東九条が日本の最初の上陸地、京都市立陶化小学校の第1期生として入学、東九条は在日コリアンの渡日が増えた。陶化小学校は児童数が増えて校区編成になった。校区編成で父親は新しくできた東和小学校に組み込まれてこの小学校の卒業生の第1期生になった。
京都府相楽郡山城町上狛(現在は木津川市山城町)にきたのは第2次世界大戦時、軍儒工場がたくさんできてからのことである。京都市内の軍儒工場で旋盤工として働いていた父親はもう1人の在日朝鮮人と2人が上狛の軍儒工場に優秀な旋盤工として引き抜かれた。
引き抜きの言葉は「京都市内と違って上狛は田舎で百姓が多い。食べるのには困らないから」ということだった。
かなりの多額な給金で引き抜かれて上狛に居住した。そして母親と結婚して筆者は上狛で生まれた。敗戦の1年前に生まれている。筆者は日本の戦後と一緒に生きてきた。年を重ねて様々な事柄に出会い家の中に大切に保管されていたものをこのコーナーを書いていて思い出した。
父親は曾祖母が日本に来る時に家宝としてもってきたものが漢文で書いた手書きの「冠婚葬祭書」だった。曾祖母の連れ合い、筆者から見れば曾祖父が書いた手書きの漢文の「冠婚葬祭書」、これは今も弟が大切に保存しているだろう。
その下に小さな手帳と名刺が1枚隠されていた。
父親は筆者にそれを見てもいいようにその金庫は他になおしてあるものをある日小さい3畳の部屋、家族が囲む食卓の上に置いてあった。何気なしに見ると曾父母が書いた漢文の「冠婚葬祭書」の下に昔の郵便貯金通帳そしてその下に小さな手帳と名刺があった。そっと手に取ってみると「協和会」の手帳とそのときの役員の肩書きがついた名刺1枚が入っていた。
父親は何を思ってこの手帳はずっと持っていたのだろうか。
様々な人生を歩んだ父親、韓国の故郷に帰りたくても2の足を踏んだのはこの小さな手帳「協和会」に隠された当時の父親の苦悩が根底にあったのだろう。けっして韓国の故郷に帰ろうとしなかった。
筆者が韓国に連れて行くと言っても「行かない」と言い張った。
当時は「他所様に上げた娘の世話にはならない」と思う父親の頑固さと思っていたが年を重ね在日韓国人の中で記者をしていると父親が生きた人生がぼんやりと見えてきた。韓国に帰らなかった父親の本当の理由は「協和会」の役員をしたことがどこかに負い目となっていたのだろうか。
故郷が分断国家になったときから民族運動をやめて日本の会社で働く普通の会社員になった。定年まで会社員で生涯を生きた。
日本敗戦で「外国人とみなす機構」に何度も何度も父親は筆者に言った。
「ある日朝鮮人を日本人にしてまたある日、何の相談もなく勝手に外国人とみなす機構を作った。日本政府がした朝鮮籍のままでいる。日本政府がどうしていくのか見届けていく。必ずいつかは外国人登録証明書を持たない日がくる」と言っていたが胸の奥では故郷に帰りたかっただろう。
それでも耐えて故郷に帰らず日本の地で骨を埋めた。
子ども筆者が言うのも手前味噌になるが頭脳明晰の人だった。韓国で生涯を終えていればそれなりの地位があった人だった。日本では朝鮮人と差別された人生もあっただろう。
しかし屈することなくたくましく生きた。けれど目立つことはしないで生きた。控えめな人生だったが何かキラリと光るものがあった。
頭脳明晰の父親の子ども、筆者は父親に似ないで出来の悪い子どもだった。父親にはいつも「出来損ないの子」と言われた。
だから父親の人生を深く見ることなく23歳で結婚して実家を出た。実家から出てやっと厳しい父親に解放されたと思った。
そんな父親の人生に回顧して文章に書けるようになったのは最近のことである。
この項目を書いていて思う。父親も日本の歴史が作った犠牲者の1人だったとわかるようになった。父親が亡くなって11年、生前は父親が大切に保管していた金庫を時には見たことがあったが亡くなってからは目にすることはなくなった。
まだあの金庫に協和会の手帳と名刺が残っているだろうか。
2010年は日本植民地支配から100年を迎える。日本植民地支配から解放されても韓国に帰らずに日本に残ったその子孫を5世、6世にと命をつないでいる。1世が日本で生きた人生は苛酷そのものだった。聞いても御伽噺にしか聞こえないだろう。しかし現実に日本植民地支配で土地を略奪されて生きる道がなくなり日本に生きるために渡日してきた。渡日しても差別の対象に置かれ今もなお外国籍として枠の中に括られて在日コリアンは生きている。排外する日本政府に日本国籍に変えて日本で暮らしやすい道を選択している在日コリアンが多くなった。
長年の日本政府の外国人排除主義にそれもやむをえないとは思うが1世の背中を見てきた2世の筆者は日本国籍に変えることに躊躇する。
そんなとき父親がたえず話していた「外国人とみなす機構を作った日本政府のあり方を見てやる」と言っていた言葉は何を意味するのか。政治権力の犠牲になった父親の人生、父親は何を言いたかったのだろうか。もっと積極的に父親と話をすればよかったと今は後悔している。「出来損ないの子」といわれた筆者、父親との距離、人を寄せ付けない威厳があった。
5世6世の子どもたち、1世にはこんな人もいたことを知ってもらいたい。
話は変って-----。
10月25日、韓国系民族学校の金剛学園小学校で「生活発表会」が行なわれた。子どもたちのサムルノリ(4つの楽器演奏)も舞踊も韓国語劇も英語劇も素晴らしかった。とりわけ最後全児童の合唱は圧巻でこの子たち、ずっと幸せで生きてほしいと願わずにおられなかった。写真を取りながら子どもたちの歌声に筆者の目に涙がたまっていた。1世が撒いた種がこうして新しい命に育ってたくましく元気に明るく命をつないでいると思うとまた涙が目にたまった。取材する記者はこれではいけないのに子どもたちの演技にどうしても目に涙が滲んでくる。
3世4世たちには2世のこの切ない思いは通じないだろう。だからこうして文章でその切ない思いを伝えている。
2008-11-23 19:40
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